ひみつノート

とりとめのないただの日記です。

梅雨明けと寂しさ

梅雨が明けたらしい。

というのを、実家の食卓で聞いて知った。86歳の祖母が、「梅雨(ばいう)が明けたらしい」と言っていて、この時代の人は「ばいう」って言うんだな。と思った。

 

外はとんでもなく晴れていた。母が、「梅雨が明けたから、空の感じが全然違う」と言っていて、言われてみればその通りな気はするけど、梅雨中も晴れていた日はこんな感じだった気もするなあ。と思ったが何も言わなかった。

 

家の前の田んぼに稲が生い茂っているのが本当に美しく、思わずiPhoneで写真を撮った。撮った写真を母に見せてと言われて見せたけれど、肉眼で見る美しさには叶わない。今、ここの田んぼはうちの土地だけれど私の幼なじみの農家のおうちに土地を貸してそこの方が作ってくれている。その方々が作ってくれなくなったら、この風景は見られなくなるんだな。と思う。ずっと続くものなどないのだ。

 

私の実家から、数十メートル離れたところに小さな森のような一角が昔からあった。近くにあるのになんとなく近付いたことはなかったが、風景の中の小さな森はずっと私のお気に入りのようなものだった。けれど先日とうとう、その小さな森が整備されてしまった。しかも、それを母に言われるまで気づかなかったのもショックだった。ある夜、どこかで花火が打ち上がっていて、その森がなくなっていたからうちの家からでも花火が見えたんだよと言われたのだ。花火が見えたことは嬉しかったけれど、森が無くなったことはなかなかの衝撃だった。ずっと続くものなどない。

 

年を取ってきているせいもあるのかもしれないが、最近どこに行っても何を見ても、これが最後になるかもしれないと思ってしまう。大袈裟だと自分でも思うけれど、おそらく今の土地にもう私はそう長くは住まないので、そう考えるといつも散歩で通る道も、実家までのなんでもない田舎道も、土手の風景も、もうあと何度も見ることは無いのかもと思うと寂しさが止まらない。

生きていくことはずっと寂しい。それに気付いたのは20代半ばだったように思う。仲の良かった友人との別れ、身近な人の死、それらを埋められるほどのものってもしかしたら無いのかもとある時思った。私たちはきっとこの先もずっと寂しさを抱えて生きていかなくてはいけないのだ。どうしたらいいんだろう。今でも急に怖くなる瞬間がある。それに耐えられる精神は、いつまで経っても自分の中には備わらないのだろうか。